小野絵麻・二三展覧会@岡山県立美術館

操山高校で昭和34年から58年まで美術の教師をなさっていらした故小野春治先生御夫妻の展覧会が、岡山県立美術館で開催されました。

会期中は小野先生の長女であられる小野絵里さん(操山高校同窓生・画家)のギャラリートークに加え、教え子である同窓生の原研哉さん(グラフィックデザイナー・武蔵野美術大学教授)のギャラリートークも行なわれ、多くの方が訪れました。
開催中の新聞記事もお読みください。

2014年9月26日(金)~11月3日(月祝)
岡山県立美術館
  
 

ギャラリートーク 

 9月26日18:00~講師 小野絵里(画家)
   
昭和42年岡山操山高校卒業「美術の夕べ・父小野絵麻と母小野二三について」

   
 10月18日14:00~講師 原研哉(グラフィックデザイナー。武蔵野美術大学教授)

   昭和52年岡山操山高校卒業
  「ふたりの芸術と啓発力」

 

小野絵麻「書道がお好き」


小野絵麻・二三夫妻 岡山市門田の自宅にて(1972年頃)


  小野二三 「誕生の詩」1974年
   ボード 油彩 個人蔵



【 以下 岡山県立美術館案内より抜粋】

 

「本展は、戦後の岡山を中心に独自の絵画表現を探求し、同時に多くの後進を育てた二人の画家、小野絵麻と小野二三をご紹介するものです。
 小野絵麻(おの・えま、1917-1997)は、岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)に生まれ、 岡山を中心に絵画制作を行ない、美術教育にその生涯を捧げた画家です。彼は東京高等師範学校(現・筑波大学)図画専修科に入学して学校教諭に就きましたが、戦時中にシュルレアリスム文学などを知ってその影響を深く受け、他に類をみない独自の非現実的な作風や特異なマチエールを生み出すに至りました。また、戦後は岡山県立高梁高等学校や操山高等学校などの教諭として美術教育に従事し、その門下から多くの美術家やデザイナーを輩出したことでも知られています。
 一方、その妻である小野二三(おの・ふみ、1915-2008)は大阪市に生まれ、彼女も幼い頃から美術に親しみました。彼女は奈良女子師範学校(現・奈良教育大学)に公費生として入学、のちに学校教諭に就きます。そして1942年に奈良中学へ配属された小野春治(のちの絵麻)が、彼女の弟・仁岸良次(にぎし・よしつぐ、1919-1944)と交流があったことから、二人は知り合います。そののち空襲を避けて岡山県に二人ともに疎開し、その地で二三は絵画教室を始め、多くの子どもに美術への興味を育むことに尽力しました。
 本展は、二人の初の作品集である『小野絵麻・二三 人間・幻想・自然』(美術出版社、2014年)の刊行を機に企画された特別展です。1962年の近所からの類焼により、不運にも彼らの初期作品の多くは失われてしまいましたが、本展では戦後に制作された作品を中心にこの二人の歩んだ希有な画業を回顧します。」

岡山県立美術館
http://www.pref.okayama.jp/seikatsu/kenbi/ 
http://www.pref.okayama.jp/seikatsu/kenbi/permanent-exh-ono.html

 


 小野絵里氏
父・絵麻 母・二三子ともに画家。 69年国際 青年美術家展に出品。 71年多摩美術大学を卒業。 79年第1回中村正義賞筆頭候補と して第5回人人展に招待出品。 83年安井賞候補。 94年「平面とイメージの魅惑」展  (練馬区立美術館)に出品。 2000年から郷里と東京で小野絵麻・絵里展(人間と宇 宙への眼差し)を開催。 02年「戦後岡山の美術(前衛遠の姿)」展に両親と共に出品  (岡山県立美術館)。その他個展,企画展多数。制作の傍ら動物保護に打ち込む。


 私の父:小野絵麻(本名春治)と母:二三(本名二三子)の展覧会「人間・幻想・自然」展が9月26日から11月3日まで、岡山県立美術館で開催されます。
 父も母も画家でありながら美術教育に生涯を捧げたといっても過言ではありません。戦禍を逃れて二人で岡山県に疎開した父は1945年28歳の時に、生まれ故郷の高梁市で教職につきました。その頃の父の授業を受けた方のお話では、全く今までのお手本を書き写すだけとは違う創造力を養う教え方だったそうです。創立30年記念誌には、昼間20時間以上の授業を持っていた父が夜間部の設立のため町の青年(水野晴郎さん)達と奔走したことが記されています。多くの生徒さんたちがしょっちゅう我が家にはいらしていましたが、その中には画家になった人もいました。母は自宅で絵画熟を開いていました。小さな高梁の城下町のほとんどの子供たちが土曜日曜は母の塾に集まっていました。
  1959年父は岡山県立操山高校教諭となり、岡山へ転居しました。1962年残念なことに近所からの類焼で両親の初期の作品や資料共に焼失しました。父の心中はどんなに辛かったか察して余りありますが、操山高校では一人一人の生徒さんの個性を大切に考え、父が武蔵野美大へ送り込む数は全国でトップだったそうです。父は長年の美術教育への功績により、1979年全国表彰を受けたほど後進の育成に努めました。
 わたしも操山高校(昭和42年卒)で美術を専攻しましたが、学校ではほかの生徒さんと同じように「小野」と呼ばれ父は照れくさかったことでしょう。父は1989年岡山県文化賞を受賞しています。
 父は若い頃、私の祖父から画家になるなら勘当だと言い渡されたそうで、父は絵を描く唯一の方法として教師の道を選び、東京高等師範学校(現筑波大学)へ通いました。その後文学的な戦友の影響でシュルレアリズムの洗礼を受け、岡山県の美術教育に全く新しい風を吹き込んだのです。
   父は東京高等師範学校時代パリで若くして客死した高崎剛の母親が息子を偲び、東京大塚に建てたアトリエ付きアパートに一時住んでいました。そのせいか、我が家には昔、40-50号程の高崎の油絵がかけてありました。その絵も1962年の近所からの類焼で無くなったのですが、最近になってその時の焼け焦げた写真が高崎の作品の一部が写っているのを発見しました。高崎の作品は世界に4点ほどしか残っていません。父に何らかの影響を与えたのであろう、そして私にとっても忘れられないものとなっています。1961年前後の操山高校写真部の方達が文化祭活動の一環として、火事に会う前の父のアトリエを撮影しに来られたことがあります。高崎の作品が写っていたら貴重な資料になるのですが・・・。


                        小野絵麻長女・画家 小野絵里

 

 

原研哉氏

1958年岡山生まれ

1977年岡山操山高校卒業

武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科教授、

株式会社日本デザインセンター代表取締役
http://www.ndc.co.jp/hara/

 

 

 

2014.10/18

ギャラリートークの模様です。

教え子である原氏が一枚一枚の前で、小野先生の絵に対する思いを1時間にわたり語りました。同窓生他多くの人が聴き入りました。

2014年10月19日山陽新聞より

2014年10月24日赤旗より

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コメント: 1
  • #1

    藤田 孝之 (土曜日, 22 4月 2017 23:00)

    小野先生は、私が操山高校3年5組の時(1965年)の副担任でした。担任の後神先生が、小野先生をいたく尊敬しておられたのが印象的でした。一度色紙にかかれた文人画を見せていただいたことがあります。当時から、40歳の時(1985年)まで絵画には、関心がなかったのですが、同僚の影響で少し関心をもつようになりました。退職後は、手すさびに横好きの絵をかいております。穏やかな小野先生の風貌を懐かしく思い出しております。絵は、見れば見るほど、作者の作り出す色、筆遣いに引き込まれていきます。死ぬ前に気づいてよかったと思います。