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【同窓生リレーブログ】
首都圏に4,000人以上いる同窓生。
徒然なるままに書いて頂きながら交流が深まるといいなと思います。
書いてくださる同窓生、常時募集中です。こちらまでぜひ。
わたしの娘には二人の父親と母親がいます。
産んでくれた両親はもういません。
わたしたちは、育ての親ということになります。
育て始めて3年半、10歳になります。
(編集部注)この投稿は池山さんの試合の前に、応援のために投稿されました。
試合は池山直選手のTKO勝ちで、5回目の防衛を果たしました。(2016.12.13)
国内最年長王座更新です。
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私は昭和47年卒業の相原毅といいます。
12月13日(火)
昭和63年卒業
梅の花が春の訪れを伝えてくれる季節となりました。
先日、27年ぶりに同級生3人で会いました。
三人三様それなりのビジュアルになってはいましたが、気がつけば時間が止まっていたかのように、私たちは青き時へと戻っていました。
共に学び、共に悩み、共に心焦がした あの青春時代に。
皆様こんにちは!
S52年卒の渡邉裕子と申します。
わたしの近況報告をさせていただきます。
最近私のまわりでは、シルバー世代のことを「プラチナエイジ」といったお洒落な呼び方がひそかなブームになっています。
私は少し手前ですが。。。笑
夫の転勤で宇都宮に移住して20年が過ぎ、その頃、趣味で始めたビーズフラワーが仕事にもなりました。
HPを立ち上げたことから、企業様からオファーがあり、作品提供やオリジナルキットの販売もするようになり、美術展や合同作品展にもオブジェを出展しながら、ビーズに天然石やスワロフスキー、パールを取り入れたアクセサリーを制作
しています。
高校を、昭和58年に何とか卒業出来た高渕と申します。
家内と同期の津島さんから操山のHPにジャンルは問わないので投稿せよ‼︎とのLINEが操山今朝突然来ましたので、本日のランチを投稿したいと思います.
素敵なお店を紹介してくださった本近氏からバトンを受け継いだ、53年卒の萱原温子です。
「HPリレーブログのハードルを下げようプロジェクト」の第二弾は、私のぐうたらホリデーについての駄文にしばしお付き合い下さいませ
縁あって、関東操山会HP制作担当者のTさんから、軽い小ネタで良いので投稿してね(投稿のハードルを下げて欲しい??)との要請を受けましたので、恥を忍んで投稿します。
岡山育ちなら、「藤戸の戦い」をご承知の方も多いでしょう。
源平合戦の一つ。源氏の将、佐々木盛綱が村人の案内で藤戸の浅瀬を兵馬を擁して渡り平家軍に勝ったのは1184年(寿永3)のこと。大勝に功のあった若い漁師を口封じのために盛綱は殺したが、後に藤戸寺を修復し漁師の霊を弔う法要を営んだという。
伝説は謡曲「藤戸」として残り、藤戸寺は源平の乱に消えた命を供養する寺として知られる。村人が持ち寄ったお供えが「藤戸饅頭」の起源につながっているとか。
「新版 岡山県の歴史散歩」(1991年、山川出版社)に記述があり、歴史好きにはおなじみの郷土史であろう。
岡山が舞台の映画『でーれーガールズ』を観てきました。
女子高生の友情物語といえばそれまでの映画ですが操山高校出身者が観ればなかなか懐かしい風景が浮かんできます。
この7月初めに34年間勤めた役所を退職し、目下、これからの「第二の人生」を模索中である。(※編集注:この記事は2014年投稿のものです)これまでの半生を振り返ると「山有り・谷有り」でいろいろ浮き沈みの激しい道のりであったと思うが、特に谷間をさまよっている時に多くの方々から心温まる激励をいただき、そのおかげで今日まで何とかやってこれたように思う。とりわけ、「超」の付く貧乏学生だった時にもらったある激励は今も心に深く滲みこんでいる。
大学4年の昭和53年7月、司法試験も国家公務員試験もあっさり落ちてしまった私は、大学入学までに既に二年遅れていたため、秋からの就活(当時は大学4年の秋が就職活動期だった)に全力を挙げることに決めた。
しかし、考えてみると、父親が経営していた電気工事専門の小さな工務店が大学1年の秋に倒産、その数か月前から仕送りも止まり、それ以降は奨学金とアルバイトだけで自活してきた私は、それまでの学生生活で旅行というものをしたことがなかった。
「来年からは社会人。長期の旅行はもうこの夏休みでしかできない」と考えた私は「日刊アルバイト・ニュース」を買い込み、旅行資金を稼ぐ短期の効率のいい仕事を探した。
すると、新宿二丁目のスナック「ジュ○」と同「サテ○○ン」で「カウンターボーイ」を募集しており、午前0時から同4時までの4時間勤務で6千円がもらえるという広告が目に入った。
当時、喫茶店の店員の時給が4、5百円、家庭教師が同じく2千円だから、こりゃあ悪くない。「23歳まで」との年齢制限(何故?「ボーイ」だから?)もぎりぎりクリアーできる。
当時の新宿二丁目がどういうところなのか全く知らず、昼夜逆転の生活にも慣れ親しんでいた私は「これだ!」と確信し、早速、夕刻に出かけて行った。