私のリメーク出来ない人生        内田幸子(脇本幸子)s32年卒


高校生活の思い出 

 

 岡山県立操山高校の三年になって舞台劇の脚本を書くように言われました。

 それを引き受けた私も私ですが、頼んで来た演劇部の部長、河田忠良さんも河田忠良さんでした。演劇部の顧問先生、野平 上先生も二人に何も言わず脚本の出来上がるのを待ってくれました。150枚近くの原稿が7月に出来上がって演劇部は立ち稽古に入りました。私もそれに立ち会う夏休になりました。 

一方所属の文学部での仕事に、部誌、同人誌「操苑」の発行もあり、文化祭の展示物の準備もありました。「操苑」の装丁もスマ-トにしたかったし、文学部で、この年発案の詩の募集を文化祭に向けて校内に広く募りました。選者には岡山で詩の第一人者の永瀬清子先生にお願いしました。私のものも、運よく入賞にとっていただき、批評を戴きました。                    

 

 また文化祭の講演にも来ていただいて、用意した会場に聴衆を集めました。興味をもっていただいた父兄も、先生方も覗いて下さって盛会でした。

文化祭当日には、 永瀬清子先生の講演。

         山陽新聞 生咲論説委員の講演をお願いしました。

展示教室の天井からはモービルをぶら下げてもらって、それは動く展示物で和歌や俳句を七夕様の短冊のようにぶら下げました。美術部の先輩の香川昌久氏(後に岡山ノートルダム清心学園教授)の手を煩わしたものでした。

 また、岡山の作家の創作、小説の舞台になった場所を尋ね、8ミリの映像取材で、モニター映写をし作者と作品の説明をしました。正宗白鳥の「入り江のほとり」、薄田泣菫の詩碑、吉行淳之介の帰郷時の執筆書斎、尾上柴舟、長島愛生園などを、写真部員の協力を得て現地取材、現場撮影で、説明を添えたパネルを作り、文化祭の展示物にしました。

前年度の部長(久保三千雄氏(後に読売文学賞受賞 著作 宮本武蔵、浦上玉堂伝、 他多数)が始めた小説家の揮毫、サインされた本の展示など、久保氏の企画は引き継いで、数を増やし展示することにしました。

 文学部の活動種目を増やしたものですから、夏休み返上で取材と演劇に飛び回っていました。

 昭和二十九年から三十二年の文学部の卒業生の中には、名を成した人も多く出られました。顧問の先生は村井菫直先生、浦田欣二先生のご指導でした。

  演劇部の私の脚本「壊された模型」は、崩れていく家庭の崩壊過程を描いたもので、よく高校生がこんなテーマのものを書いたものだ、と、あきれさせたようでした。が、野平先生は「良かったよ、残念なことに、今年は県の高校演劇祭に出演校としての順番でないので出演出来ない。生徒の脚本と言うことで発表したかったが・・・公会堂で上演出来ないのが惜しいね、残念だ」と言われました。

親は、夏休みの間中、飛び回っていた私のことを心配もしていたことは分かっていましたが、文学部も演劇部も退くに引かれない状態でした。

 操山の演劇部史の昭和31年度の項に「壊された模型」-原作、脇本ゆき子と記録していただいているのが <あんなこともあったと> 高校時代の思い出のよすがになっています。

 高校生活はそんな文学部と演劇部のことばかりで、勉強はしないで(本当のところは勉強は出来なくて) 大学は行かないで良いと、一人で決めて、大学受験は見送ってしまいました。力があれば、部活の一つや二つこなして、立派に大学に入った人は沢山いました。

 

 卒業後すぐに上京したかった気持ちを抑えて、私の思いを発露する所はどこかにあると、岡山の街をフラフラしていました。岡山の街にもアーチスト紛いの若い人が結構たくさんいました。しかつめ顔をした若い人が、喫茶店で持論を滔々と述べていました。

 

 

 

自由からの逃走

 

 親は、教員になるなら岡山の大学に行かす、と言いましたが、私は自分が、教員が務まる人格とはとても思えません。大学に行かなかった代わりに、高校時代に見つけた本<エーリッヒ・フロム>の「自由からの逃走」を読んで、親にはこの本で大学の勉強は出来上がり、などと怠けたことを言っていました。

時経って、息子が大学に行って教養基礎の学習にこの本を持っていました。

やはりあれは大学の教科書だったのだ、と思いかえし、あの本一冊で大学の代わりなどと、親を煙に巻いたものの、後には、私の人生そのものが、煙の中を彷徨うことになります。あの頃、熱く語った「自由からの逃走」も今は自由からの束縛で、残り少ない余生を考えあぐねています。   

 

 

 ドラマ脚本の執筆

 

高校卒業後、青春を迷いながら何の支えもなく、蔓草のようにふらふら風に揺られるように彷徨っていました。

岡山山陽放送、RSKでドラマの公募で入賞の域に入れていただきました。

昭和34年から何年かドラマの脚本を書かせていただき、放送していただきました。

   夜の雷雨         ◇  因縁の村

   右の手          ◇  吉井川 

   金子と銀子        ◇  語る仏像

   岬の仏堂 

 

放送の度に親が知り合いに録音した作品を聞いてもらっています。その度にああ、こんなことで知り合いは喜んでくれるのだと、こちらも嬉しくなるのを知りました。

 

しばらくして上京します。

なぜか朝日高校の人たちが仲間に誘ってくれました。それも一学年上の人たちです。本郷功次郎さんとか、角田さん、とか俳優志望の人、絵を志す人、オペラ歌手になりたい人、いろんなアーチストの卵たちで賑やかな集団でした

「何!小説家になりたいって!いいじゃあないか」と言われて朝日ファミリーに出入りさせていただきました。本郷功次郎さんを中心に劇団を創ろう、などとわいわい言っておりましたが、あれよ、あれよ、という間に本郷さんも名が売れ出して俳優業が忙しくなるにつれ、劇団創設のことは立ち消えになってしまいました。

東京へ行ってどうしているのだろう? と操山の恩師の一人が、心配してくれまして、上京の際面談をすると言ってきました。

 

そういえば、私の上京の際、東京の大学にいこう、と一瞬決心したことを思い出していました。しかし大学に行って親に負担をかけるのも憚られました。劇団創設だの、小説だのと言っていた私は、恩師に合わせる顔がなく、面談はキャンセルしてしまいました。遅れて大学に入るという道もあったとは思います。

 

 

 

 

平凡に生きる=それで‘よし,とせよ

 

24歳の時、結婚することになりました。

 当時は、24歳の結婚といえば遅いほうでした。

 「平凡に生きよ、それでよし」結婚に際して親はそう言いました。

伯父がそれに付け足して「人の歩む道を平凡に、一生懸命生きれば・・・ただそれだけで良いのです」と付け足してくれました。

素直にうなずいて答えをしたでした

東京で新生活をスタートさせました。 

人の子供の養育と、連れ合いの起業家業の営業の手伝いで慌ただしく時が過ぎていきました。零細の起業を倒産させることなく、50年あまり継続していられるのは、連れ合いの忍耐の成果と言えましょうか。

子供の、稽古事だ、受験だと忙しい時が慌ただしく過ぎていきました。機会あるごとの、あちこちのお付き合いも大事でたいへんでした。

子育てにそろそろ手がかからなくなったころ、また書くことに目がいってしまいました。駒田信二先生に書くことを教わりに行きました。同人誌「まくた」に何篇かの小説、随筆を書きました。

 

   備中高松城水攻異聞

   本能寺変拾遺夜話

   恐悦至極存候

   借罪

   やすらぎ茶屋

   梅雨時の憂鬱

   バルセロナまで

   秀吉の嘘

   約束

岡山吉備の国文学賞

 

 

 

 岡山吉備の国文学賞

 

平成3年に初回の「岡山吉備の国文学賞」を戴きました。

この頃、日本各地に文学賞の募集が盛んだったそうで、岡山も、内田百閒、生誕百周年を記念して、この賞を創設して下さいました。

「備中高松城水攻異聞」は秀吉の高松城の水攻めの史実にフィクションを織り込んで、城主の奥方と侍女の独白で、交互に城の内からと外からの事象を語らせたストーリーです。       

この嘘、本当だと思えます? というものでした。

選者は阿川弘之さん、飯嶋耕二さん、瀬戸内寂聴さん、永瀬清子さんでした

内田百閒を顕彰してのこの賞の創設でした。

 内田百閒と共に、賞の名付けに「岡山吉備の国」と、賞に冠されたのも嬉しいことに思われました。

初回の受与式ということで、県の関係者の方が大勢祝福にきて下さり、パーティも賑やかな人数で、それぞれの方が声をかけて下さいました。

開場は旭川の畔の三光荘でした、

    (写真上 岡山吉備の国文学賞授与式 )

 

    (下 瀬戸内寂聴さんに祝福されて

 

その後 孫が生まれて、孫のために児童文学を研究に行きました。童話を書くのは難しいものですが、いくつかを同人誌「ぷれぜんと」に書きました。

   やくそく    ○ ひみつ

   咲ちゃんはカルガモのおかあさん

   夏休み

   押入れの中

   ウサギのおばあさん

   芭蕉さま、杖をどうぞ

   咲ちゃんと彩ちゃんとおじいちゃんとおばあちゃんの じゃらん

 じゃらん         

   わたしのおうちはどうぶつえん

   スリッパのかぞく

 

 咲ちゃんを主人公にした話も、可愛らしいモデルで面白く書きましたが、その咲ちゃんも今は大学に通っています。

 

 

 

 

世田谷文学賞

 

世田谷区から詩の部門で賞をいただいたのは、平成23年でした。

 

  (写真 世田谷文学賞 )

 

この頃、句会にも行って勉強させていただきましたが、17文字の短詩がなかなか私には手強くて出来ず、感性も鈍ってしまい難儀をしています。


    ○ カウントダウンタクト振り終え年明くる

  ○ 寒あけて立ち話している乳母車

  ○ 暖かや嬰〃の這う距離日ごと伸び

  ○ みな語るあの日の空や百日紅

  ○ こちら見る猫も一人や霜の庭

  ○ 藤の花風に揺られて咲き移る

  ○ 湯の宿の初湯に入れる赤ワイン

  ○ 垣根越し蝋梅咲いて人集う

  ○ 陽だまりも一緒に掬いあやとりす

 

 

 

 

自主制作のCD DVD 「恋しるべ」

 

CD「恋しるべ」をどうしてつくったのですか?と、よく聞かれます。 故郷から文学賞もいただき、育ててもいただいた岡山に、(お礼とかお返しとかは出来る私ではありませんが)何かしなくてはと思い続けておりました。

考えた末に、岡山の振興のための「歌」を創ることにしました。

振興などと、大それたことを言っていますが、完成した歌に、皆さんが「岡山ウエルカム観光ソング」と肩書を付けて下さいまして、だんだんに、自然にこう呼んで下さるようになりました。私の願い、<振興のため>に、と近づけて下さっているように思えます。嬉しいことです。

この歌で県外の人、海外の人が岡山を認識して下さり岡山に行こうか、と岡山を思い出して、再訪して下されば嬉しいことです。

パーティのウエルカムソングとして、岡山関係のイベントの会場に雰囲気づくりでDVDを流していただいておりますのも嬉しいことです。

どうしてこの歌を創ったか、と人は聞き、その人は即座に続けて「岡山の何がそんなにいいの?」と聞きます。景色も食べ物も良いし、何より岡山の、ソーシヤル・モードが良いと、私は横文字でちょっと気取った返事をします。「よー、おいでんさったなぁー」 「それじゃ ぼとぼとにおしんせーよ」という岡山の言葉も観光誘致の岡山ハートとして、これも気取って言います。

「岡山の綺麗な景色を見て、美味しいものを食べて、岡山の宝物を見つけに来て下さい」 と、岡山ウエルカムです。

「恋しるべ」の題名だけでも、広めていただければ、「恋しるべ」が岡山へのお誘いのお役を務めます。

 

「恋しるべ」は山陽新聞、テレビせとうち。RSKで紹介していただきました。

倉敷の観光バスターミナルでもバックミュージックとして流していただいております。

 

その他、各地コーラスグループで歌っていただきました。  

 

 山陽新聞  紹介記事

 

岡山県人会、倉敷ふるさと会、東海県人会の総会にはウエルカムソングとして、パーティの開始の合図に、雰囲気作りに流していただいております。

 

「恋しるべ」は岡山を発信地として、人の行き交う場所で流して下さい。

岡山の旅情を醸し出してほしいと願っています。倉敷の観光バスターミナルで流していただける時がやっときて、岡山の地で用立てていただけたと喜んでおります。新幹線のホームでも流してほしいと、たいそう大それた独り言を言ったりもしております。

 岡山の観光スポットと「恋しるべ」は響きあって、多くの人の岡山を愛おしむ心を、優しくしてくれると私は思っております。

 

県外の方も「恋しるべ」を聞いて下されば、歌詞が「いつでも気軽においでんせぇよう」と訪岡をお誘いしていると、感じていただけましょう。

 

 

 

「自由からの逃走」反転 

 

自由からの束縛、などと嘘ぶいて、何かを回避するような、いい加減な私の来し方です。日高六郎訳書の330ページほどもある「自由からの逃走」をあれほど読んだのに、今は頭の中に残っているものがありません。

日高六郎の後書きにあるように「自発的な愛と仕事」を、フロムは希望にかけて、それを人生の「答え」としているそうです。さらに社会経済的な変革が必要であることを認めている、と。私には、哲学的、心理的な難しい答えを分かり易く言ってくれているように思えます。

「自発的な愛と仕事」と。それが集まれば社会は進むのだと、それで変革するのだと、私は盲目的に思いたい。私には、人生の成すべきこと、というものが未だにはっきりと掴めていません。

 

今までたくさんの人と出会いたくさんのことを教えられているのに、それが「自発的な愛と仕事」へ、の行動に結びついていないのです。フロムの人生の答え、とするこのテーマを私は盲目的に言っているだけ、中身の本質的な意味が分かっていないのですから。言葉を書きつらねて社会は変革するのだ、と思っているようです。未熟にそう言っていていいものでしょうか。

 

 

 

自発的な道楽人

 

最近よく「内田さんは、何をする人?」と聞かれます。

楽曲「恋しるべ」や「コウノトリよ」他を創ったり、犬養毅のテレビドラマを創って下さい、と突拍子もなく皆さまにお願いするからでしょう。

「これぞ岡山出の道楽人」と、言って下さる方もいらっしゃいます。慰めて下さっているのでしょうか。居ても居なくてもどうでもよい存在ですが、やや肯定的に言って下さるこのような方には、内心甘えて理解を乞うております。

「コウノトリよ」も犬養毅のコードも「自発的な道楽人」のなせることと自分を自己弁護しています。フロムの「自発的な愛と仕事」とは勿論比べるまでもなく叶わぬことですが、これに少しでも近づけないものかと、思っているのです。周りのご理解もいただけたらと、思っております。

 の能力と行動、発想力では、「自発的な愛と仕事」の域にはほど遠く、日暮れて道遠しの感です。

 

人生の修復は出来ないものの、せめて残りの余生は少しでもフロムに近づけないものか。

と言っても、自発的にです、愛です、仕事です! とても自己愛の方が勝ってしまっている身には、フロムに近づきたい、とは口幅ったいことです。

 今まで好き勝手をして自己弁護ばかりしてきた身には、よろよろとして立ち上がれそうもなく、重い荷を背負わされているようなものです。

高校生のころ理解しないままに読んだ、フロムのスピリットの残滓が私の中に少し残っているのかもしれない、それが良かったものやら、悪かったものやら・・・すべてが中途半端で終わってしまうことで、やはりリメーク出来ない人生だったと嘆くことなのでしょう。

 

 

 

 

私のレーベル  詩と音の饗宴

 

詩を書いた自主制作の楽曲たちです。歌がそれぞれのテーマを主張しています。

 

「恋しるべ2015」    この街に来て、何かを探して新しく旅立って。

岡山ウエルカム観光ソ人生ノート(自主制作の贈り物)・・前出

「コウノトリよ」       交渉協議団のコウノトリよ、同じ哀しみを認めあうことが再交の時機になる。

          詠嘆の嘆きを伝えてよ。 幸せ運ぶコウノトリよ。 

 

「空も海も心も」       微笑み交わせば心に問われるもの分る。隣国どうし心を通わせば微笑も生まれる

 

「扉を開けて」     扉を開ければ風が運んでくる新しい物話。

 

「朝日は昇る」     細やかな思い出の中に愛は潜んでいる。被災地の子供たちの頭上にも朝日は輝く。

 

人生ノート(自主制作の贈り物)

(祝結婚は新家庭を持つ人に、祝成人は20歳になった人への贈り物

(私の制作 「人生ノート」は一年に一度の記帳で済ますものです)

 

 

 

この「リメーク出来ない私の人生」ではお恥ずかしい事柄なども臆面もなく晒すことになりました。歌作りを始めてから、宣伝のような言動が先走り、欲がつい表に出て見苦しい言動をとっております。

お恥ずかしいこともお話しました。このページに取るに足らないことなども記させていただけました。

余生の宿題に、多くの人と共感できる「自発的な愛と仕事」を躊躇せず手掛けていかなければならないと、残り時間が少なくなるこの頃思っています。

 

 

 

 

<我儘の序に私のテレビドラマ用筋書シノプシスを映像化して下さい。企画プロデュースして下さい。「本能寺変拾遺夜話」「恐悦至極存知候」「備前の刀工」「バロセロナまで」「やすらぎ茶屋」

 

 

次にシノプシスを書かせていただきます。>

 

 テレビドラマ企画

私の創作ドラマ脚本初稿(ショートシノブシス)

 

 「備 前 長 船 の 刀 工」

自分の銘のまだ無い備前長船の刀工、鬼翁が我が身を賭しての、刀造りの工法を見つけ出した鍛錬の過程を、描いたものです。 

清水宗治の墓所から遺体と一緒に懐剣は(秀吉から講和の条件として切腹を命じられた時、宗治使用)三つに折れて出てきました。これは天正十年の高松城水攻めの実録として記されているものです。このヒストリーにフィクションを加えてテレビドラマとして企画書にしたものです。刀工に鍛錬を重ねる架空の人物、鬼翁は「刀造りは、今を欺くことぞ、欺くことは騙すことではない、操ることよ。我が手中を自在にすること。刀身は硬くそして、あくまでしなやかに、火と水に試してそして妖しい匂いを出さねばならぬ・・・刃紋の中に怒濤の海がなければならぬ、天地を裂く稲妻が走らねばならぬ、…そして心は、氷のような静寂の美徳がなければ、鍛錬は出来るものではないの

己の技と、弟子を鍛え、試練を繰り返し、我が身を試して遺した伝法の秘書は、天正十二年の吉井川の洪水の氾濫の濁流の中で、鬼翁の妻(濁流にのまれる)と、養子に出していた息子(双子のうちの一人)とによって死守された。

長船の名刀の技法はこのようにして後世に残し伝えられた。登場人物たちの死はどのような時どのような遺訓を遺したのだろうか、ドラマのテーマです。 

三つに折れた懐剣の刃片は、遺骨と間違われていたが、ホルマリン洗われ白濁し、鉄片と確認されて、清水宗治の副葬品として認められた。という残された記録の事実から、ドラマのテーマを創り出せたフィクションの物語です。

参考文書は高田馬治氏の昭和天皇へのご進講の記録「備中高松城の水攻」 

 

 

「榧 の 木 の 官 邸」(犬養毅のドラマ、ショートシノプシス)

「お義父さまが話せばわかる、って言ったのに・・・ピストルの音がそれを消してしまったのよ、」「兵隊さんのピストル?」「今、はっきり分ったわ、ピストルの音が何を意味するか・・・あのピストルの音がこれからの日本を変えてしまうのよ」「お爺いちゃまは憲政の神様なのに」「話し合いをしないでどうして問答無用で国が出来るの」「ママ怒ってる」「ええ!とっても!道ちゃん、あなた生きているかぎり今日のこと後々まで語り継ぐことになるわ」「うん、士は以て弘毅ならざるべからず任重くして道遠し、でしょ!」「道ちゃん、よく覚えてるわね」「お爺いちゃまがいつも言ってたもン、誕生日も同じ、名前は道子と二人で孔子を分けおうたんじゃから、って」

<フィクションのラストシーンは、犬養毅の孫の道子とその母親(健の嫁で後藤象二郎の孫)の515事件直後の会話である。>

昭和6年には3月事件、満州事変、10月事件と日本陸軍が軍事独裁体制を画策する動きが蠢いていた。犬養は、陸軍の大陸侵略行動を如何に阻止し、国内の革新運動をどう組み立てるかに腐心していた。ここに至るまでの犬養の政治活動の軌跡を見ると、犬養の唱える民政政党、護憲体制、普選法案、治安維持法との拮抗、中国政府との停戦協定の締結の模索、国民総参加の民意参加政治体制、・・・次から次へと難問が首班、総理に立ちはだかる連続であった。

 

これらの時代に犬養はどう立ち向かっていったのか。今の日本が教えられることが見えると思う。一貫した理念(産業立国としての国の体制づくり、隣国を侵攻してはならない、恕の心、質素倹約の心)は、犬養毅の凛とした姿をもってドラマの中で描かれるはずです。「わが国は弁明の外交より脱して、自主的新生面を開拓し、秩序回復に当らねばならないのであります。満州の主権は中国にあるのであります、の演説より)この犬養の演説の誠なるところは、当時の状況の中では如何に位置づけられたのか。ドラマにしてください

 

 

 

イヌケエさん」「木堂さん」のこと~もう少し

 

 

「地元は辛抱せぇ、ここに道路を造るのは後回しじゃ、先に産業のために予算は使う、地元の道路は後廻しじゃ」犬養毅の言葉に地元民は頷いていた。

この様子は私の父が私に聞かせたものです。

この言葉を思い出すたび、犬養毅と支援者の国政への姿勢が窺えます。地元民の犬養毅への支援ぶり、思慕の情に私はいつも涙が出るのです。

没後何十年経っても犬養毅の衣鉢の奥義を探ろうとする大勢がいるのは、「地元は辛抱、後廻しぞ」と言った言葉の中にこそ指導力と、支援者の信頼の追従の様子がみえる。この言葉に施政者の神髄があったのではないだろうかと、私なりに思うのです。指導者を仰ぎ見、「木堂さん」と言って慕ったことこそが、信頼を委ねる支援者へと変わっていったのだと思う。少しづつ支援の列が長くなっていったのだと思う。

 

515事件を経て太平洋戦争へと突き進んだ歴史と、国際関係改善のため、恕の心を持たねばならない、自主的な外交で主権国の品格を持ち、礼儀を糺さねばならない、それらの回復に当たらねばならない、と未来の日本の姿を説いた犬養毅の思いと・・・その差は、何処でどう現れるのか・・・私は、第二次世界大戦終結時日本が受けた東京裁判、そのものだと思っている。

 

犬養毅の政治施策~隣国との良好な国交正常化、民意参加の政治体制、アジアの隣国を侵してはならぬ、わが国は産業立国をめざせ、の主張。それまで多くの犬養方策を見てきた地元の選挙民は、「中国とは仲ようせねばならぬ」という演説を安心して心地良く聞いていたのだと思う

「木堂さん」の公開演説があれば、近隣の者は消防車を繰り出して公聴会場に繰り出して会場の整備を整えたということである。

そういう庶民の目を通しても犬養毅の理念は語れると思う。そうした犬養毅の姿をドラマで見るのも、あながち今の日本にとって無意味なことではない、と思える。

登場人物も、当時の軍関係者、対立政党の有力者、ジャーナリズム、萱野長知

古島一雄、大陸浪人など、多方面からスポットを当てれば人間ドラマのサスペンスにもなると思う。

 犬養毅のドラマを創って下さい、というのはこんな趣旨からなのですが・・・

犬養毅を映像化するのは、失礼なことではないか、とのご意見もこの頃頂いております。そのように考えなければならない、とも思えます。

 

ドラマの実現は無理なことなのかもしれない、とこの頃思ったりいたします。

 

いろいろのことを考慮いたします。

私は下のロゴマークで、「木堂さん」を顕彰していきたいと思います。 

人生のフィニッシュ 

 

振り返れば、後悔することばかりです。一番思い煩うことは「人格を品よく生きてこられなかった」ということです。人とのお付き合いも素気なく、不義理なことばかりでした。言動は粗野で自分勝手な行動ばかりです。

 お世話になった方には、お礼も申さずの永久の別れになった方も多く、恥多く辛いことです。書き散らかした雑文も沢山あり、どうにかして片付けたいと思っています。  

テレビドラマの企画は、無為なことですが書かせていただきました。

 

「備中高松城水攻異聞」は「岡山吉備の国文学賞」を戴いて小冊子にしていただいております。

自作小説 「本能寺変拾遺夜話」「恐悦至極存知候」の二編は前編、後編の続き物です。信長、光秀、秀吉、利休の四人の権力者の中に、黒人の奴隷少年を絡ませたフィックションです。

アフリカから連れて来られた少年は、日本の戦国時代の世をいったいどう生きて行ったら良いのか、書いた者は残酷な描写をしたのかもしれません。

 

子育ての償いとして。

「咲ちゃんと彩ちゃんとお爺ちゃんとお婆ちゃんのじゃらん、じゃらん」は子供たちに優しい心と強い心が育ってくれれば良いと思って、孫が赤ちゃんの頃から二十歳ぐらいまで、年に応じて読んでもらえるような、童話と小説を書き並べたものです。                        

これは自費出版出来れば良いと思っています。 

一苦労ですが、私が遺せるものといえばこの程度なのか、とも思えます。

そしてフロムの宿題「自発的な愛と仕事」のこと。

具象的なことが表現出来なければなりません。

ヒントは仄かに見えているような、示されているような、とは思えるのですが。

余生のテーマは、やはり皆さんと同じく「世界平和の祈願」でしょう。

同郷の先輩は「ふるさと再生、」をヒントにくれました。

世界遺産レベルで岡山にも認めてもらえるものが何か一つは欲しいものと思います。

皆さんにお尋ねしても岡山には遺構という過去のものも無いそう。

瀬戸内海の景色もダメなようで・・・知的財産を探せば・・・「山田方谷さん」が,NHKにお伺いをたてています。

山田方谷さんドラマ化が実現すれば、岡山高梁の文化が再認識され、今も続く優秀な人材の輩出に、山田方谷の偉大な影響あり、と高梁は衆目の的となるでしょう。

「山田方谷ドラマ」が一日も早く実現すれば、県民一体の運動の成果も出て、岡山県民もふるさと再生に貢献出来た喜びに沸く、ということになります。

日本が、分かり易く主権国を世界に認証させるには、「世界平和」を提唱しアピールすることが大事ですもの、「「他を侵さず、侵されず」の立ち位置をしっかり示して・・・このことを話合うことに・・・また、辿り着きます。

 

 

  

 

 フィナーレ (歌詞・岡山がやさしく呼びかけてくれます)

 

   岡山LOVE  内田 幸子

 

男   アイビースクエアで 昔のこと話そうよ

捨てられたように 上手にしむけたけれど

悪い小細工のストーリー

倉敷川の水の流れが この身を責める

ずっと君がいない

無事を知りたい

今 どこの風に吹かれているの・・・・

 

女   瀬戸内の海辺で 二人写真を撮りたいわ

お付き合いは もっと先でと言ったけれど

ほんとのこと 分かっていたわね

瀬戸内の海きらめく光が この身を責める

ずっとあなたがいない

無事を知りたい

今 どこの風に吹かれているの・・・

 

男女  帰っておいでよ 岡山へ

光の岡山  瀬戸の海

緑の岡山  吉備の高原(やま)

どこにいるの帰っておいでよ 晴れの岡山へ

どこの風をつれて いつ帰って来るの

どこの風をつれて いつ帰ってくるの

 

2016、 夏

                  

 岡山が優しく呼びかけてくれます

お好きなメロディーで歌って下さい。 

フィナーレは岡山礼賛、岡山郷愁です。

 

 

 

 

 

 

 みなさま。

 各方面でご活躍の岡山関係の皆さま、ご厚誼戴き、お名刺の交換ありがとうございました。

 また、ご紹介にあずかりました方々、たくさんの、アドバイスを親身になりお与えくださいまして、身にあまる光栄でございます。

 何の取り柄も無いわたくしでございます。

お陰さまで、このHPで長々と来し方を綴らせて頂き、私のとるに足らないことなどを聞いて下さいました。

何の持ち駒も無い、やり直しの出来ない私の平凡な人生(親の言いつけどうり)でございました、にもかかわらず、このHPなどに載せて頂きお目通し頂きましてありがとうございました。

深く感謝いたします。

ありがとうございました。

 

              2016,08,6   広島の平和を祈る日。

                            内 田  幸 子

                             ksuchida@blue.ocn.ne.jp

 

                                 

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コメント: 1
  • #1

    寺 田 達 雄 (土曜日, 28 5月 2016 18:42)

    2016/5/28関東同窓会に初めて出席し、内田幸子様と隣の席になりました。一つ上の学年で「文学部」でご活躍され、共通の友人がいると知りました。案内されたこの半生記を読ませていただき、自立した女生徒もいたことに、感激です。
     「終い支度」などと決めこまず、さらに人生の深奥を探訪して下さい。「自発的な愛と仕事」に終わりなぞあるわけはありませんから。