李麗仙「藤戸」 ご紹介     寺田達雄 (昭和33年卒)

 

 

 岡山育ちなら、「藤戸の戦い」をご承知の方も多いでしょう。

 源平合戦の一つ。源氏の将、佐々木盛綱が村人の案内で藤戸の浅瀬を兵馬を擁して渡り平家軍に勝ったのは1184年(寿永3)のこと。大勝に功のあった若い漁師を口封じのために盛綱は殺したが、後に藤戸寺を修復し漁師の霊を弔う法要を営んだという。

 伝説は謡曲「藤戸」として残り、藤戸寺は源平の乱に消えた命を供養する寺として知られる。村人が持ち寄ったお供えが「藤戸饅頭」の起源につながっているとか。

 「新版 岡山県の歴史散歩」(1991年、山川出版社)に記述があり、歴史好きにはおなじみの郷土史であろう。


 

岡山ゆかりのその故事を、李麗仙が現代語の能舞台でどう仕立てるか、興味深い。演劇ファンに、李麗仙はお馴染みでしょう。唐十郎と組んだ「状況劇場」以来、「アングラの女王」は、その個性的な演技で演劇界に強い風を送り続けている。「桜川」「卒都婆小町」に次ぐ現代語能三部作の最後が「藤戸」である。

 「チャラチャラした音楽混じりの演劇が流行るが、私のチャレンジは骨太な舞台。人の心に響く芝居の力を見直してもらいたい」と李麗仙は話している。

 優等生向きの「知っている」「わかった、わかった」が狙いの舞台ではない。そもそも芝居は野にあったし、戦場もまた備前の国の野っ原だった。

 演劇の楽しみは観る者の、想像力を問うところにある。

                         (寺 田 達 雄、昭和33年卒)

「藤戸」について


   http://www.tessen.org/dictionary/explain/fujito


口封じのために氷の如き刃で貫かれ、千尋の底に沈められた男の亡霊から聞こえてくる、無力で悲痛な民の声。


作者 未詳
場所 備前国(現在の岡山県) 児島(こじま)
季節 晩春
分類 四番目物 執心男物
登場人物
前シテ 藤戸の漁師の老母 面:深井など 唐織着流女出立(一般的な女性の扮装)
後シテ 藤戸の漁師の亡霊 面:痩男など 水衣着流痩男出立(男の亡霊の扮装)
ワキ 佐々木三郎盛綱 直垂上下出立(武将の扮装)
ワキツレ 盛綱の家臣(二人) 素袍上下出立(下級武士の扮装)
間狂言 盛綱の下人 長裃出立(下級武士・庶民などの扮装)

概要

源頼朝の家臣・佐々木盛綱(ワキ)が、馬で海を渡り手柄を立てた功績として備前国児島を賜り、現地に赴く。そこへ老女(シテ)が現れ、わが子を波に沈めたことの恨み言を言いに来たと言う。盛綱ははじめはとぼけるが、やがて観念し、その詳細を語って聞かせる。実は馬で海を渡り手柄を立てる事が出来たのは、この土地の男から浅瀬を教えられたからで、その時盛綱は口封じのために男を殺していたのであった。老女が男の母だったと知った盛綱は、遺族の扶養を約束して老女を自宅へ帰し、男を弔うこととする。法要を行っていると男の霊(後シテ)が現れ、恨みを晴らそうとするが、仏法の力によって成仏する。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキ・ワキツレが登場します。

源平の戦いのさなか、元暦元年(1184)。馬で海を渡り、備前国児島にいた平氏軍を撃破した源氏の武将・佐々木盛綱は、その褒美として、「昔から、馬で川を渡る話はあるが、海を渡るなど聞いた事がない。盛綱の勝利は稀代のことである」という頼朝の賛辞とともに、児島を領地として与えられたのであった。
今日、その盛綱(ワキ)がはじめて児島に領主としてやって来た。彼の家臣(ワキツレ)は、訴訟の希望者は誰でも申し出るようにと、住民たちに触れ回っている。

2 シテが登場し、ワキと言葉を交わします。

そこへやって来た一人の老女(シテ)。彼女は訴訟ありげな様子で、盛綱の顔を見てはさめざめと泣いているのであった。不審に思う盛綱に、彼女は「我が子を海の底に沈めたことの、恨み言を申しに参りました」と述べる。記憶に無いとしらを切る盛綱に、老女はさらに詰め寄り、「せめては息子の亡き後を弔って下さるならば、少しは恨みも晴れましょうものを、知らぬ存ぜぬとおとぼけになるとは…」と嘆きの言葉を述べる。

3 ワキは、浦の男を殺害した経緯を語って聞かせます(〔語リ〕)。

ついに観念した盛綱は、さきの児島での戦いの様子を語って聞かせる。
──去年3月25日。私は浦の男を呼び出し、この海の中に馬で渡れる所はあるかと尋ねた。男は浅瀬があると教えてくれたので、喜んだ私は家来にもひた隠し、その夜、男と二人でその浅瀬に赴いた。その時私は「このような賤しい者は他の人にも教えてしまうだろう。手柄を独り占めする為には、気の毒だが…」と、男をその場で刺し殺し、海に沈めたのであった。そなたが、あの男の母なのだな。これも運命、今は恨みを晴らしてくれよ…。

4 シテは嘆きの言葉を述べ、悲しみのあまり取り乱し、ワキに詰め寄ります。

「さては、人から聞いた通りであったか」と老女は嘆息する。「老少不定の世の中で、子に先立たれた老いの身、今は生きていても何の甲斐がありましょう。あの子と共にいた二十余年は、今となっては夢のようなもの。頼みに思っていた我が子がこの世を去って、今は何をたよりに生きてゆけばよいのでしょう。いっそあの子と同じように、私も殺してくださりませ…!」老女は人目もはばからず号泣し、わが子を返せと取り乱すのであった。

5 間狂言がシテを家まで送り(中入)、その後、供養を行う旨を触れてまわります。

泣き崩れる老女を見て気の毒に思った盛綱は、男の供養とその妻子の扶養を約束し、「今となっては恨んでも仕方のないこと」と、下人(間狂言)に命じて老女を自宅まで送ってやる。そののち盛綱は、男のために管絃の供養をおこなうべく、準備を始めるのだった。

6 ワキが弔っていると後シテが登場し、ワキと言葉を交わします。

波がしずかに音を立て、空には月が澄みわたる夜。かつて男を屠った浜で盛綱たちが供養をしていると、波の底から、亡き男の幽霊(後シテ)が姿をあらわした。
「盛綱どの、お弔いは有難いが、妄執は未だ晴れやらぬ…。その恨み言を申しに、これまで参ったのでございます。」

7 シテはワキに恨み言を述べて詰め寄りますが、やがて成仏し、この能が終わります。

──貴方がこの島を賜るほどの名誉を得たのも、私のおかげ。その褒美すら無いばかりか、命までも召されたのは、馬で海を渡るにもまして稀代のことでありましょう。氷のような刃でズブリ、ズブリと刺し通され、そのまま海の底に沈められた私は、波に流され岩の狭間に引っかかり、悪龍の水神となって、恨みを晴らそうと思っていたのだが…、
「思いの外に弔いを受け、その功徳によって、成仏の身を得ることができました」 そう言うと、藤戸の悪龍は消え失せていったのであった。

小書解説

・蹉跎之伝(さたのでん)

「蹉跎」とは「足摺り」のことで、何かにつまづき、足元がよろついて前に進めないという意味です。この小書がつくと、前場の「わが子返させたまへや」と老母が盛綱に詰め寄る場面で、シテ老母の足元が定まらずにタジタジとなってしまう型が入ります。老母の、悲しみの余り取り乱したさまが強調され、その悲痛さが一層際立つ演出となっています。
また、この小書のときには、後場の、後シテの亡霊が自らの死に際を語るところでも、波に漂い流されつつ沈んでゆく場面で〔立回リ(たちまわり)〕が入るなど、他にも演技面に変化があります。

みどころ

本作では、戦争の悲惨さと、権力者に対して非力な民の悲しみが描かれています。
本作の典拠となっている『平家物語』では、盛綱が男に案内されて浅瀬の存在を知り、口封じのために男を殺したことが、盛綱の視点から書かれていますが、本作ではその後日談として、殺された者、遺された者の視点から物語が綴られています。口封じのために民を殺害することは、当時の常套的な戦いの手段であり、仕方の無かったことであるとは言いながらも、その悲惨さ、運命に対してどうすることもできない民の悲しみを描いたところに、本作の特徴があるといえましょう。
本作では、終曲部で男が成仏の身を得るところを除いては、救いのない、暗い舞台が展開されてゆきます。前場で領主・盛綱に詰め寄る老母の悲痛さ、後場で氷のような刃で刺し通される男の亡霊の苦しみ…、本作はこうした、救われない者の悲劇で貫かれています。だからこそその中で、人々は救いを求めてゆくのであり、そういった絶望的境涯からの「祈り」が、本作のテーマとなっていると言えましょう。

         (文:中野顕正)

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コメント: 1
  • #1

    内田幸子 (土曜日, 11 2月 2017 14:25)

    良いものをご紹介下されました。 
    寺田さん、解説にある「もともと芝居は野にあったし、戦場もまた野っぱらにあった」の言葉と、李麗仙の「人の心に響く芝居の力」というお二人の言葉を、心して、と思い続けている内に、コメント差し上げる時間が過ぎてしまいました。
     先日、テレビ番組で外人の方が龍安寺の石庭をじっと見ていて、やがて感銘のあまりポロポロと涙を流してしまいました。野っぱらにある心に響くもの、「これだ」と思いました。
     人口知能、また4kの技術の進化を見定めるのと共に、日本の伝統芸能から新めて教えられるものに気づかなければ、と思いました。折角の岡山を題材にした「お能」、今度は岡山の地で「薪能」というわけにはいきませんか。

    これからも、皆様の心に響く良いものをご紹介下さいますようにお願いいたします。