サッカーの甲子園を逃したサッカー部、そして馬術同好会          岡崎陽二(昭和36年卒)

 

昨年の会合に初めて参加したが、150名余の出席者、1部は卒業年次別、2部は部活別の席替えと新鮮な企画もあって盛会であった。

 

 

私が“サッカー部”席に移った途端に、若い人から、「黄金時代の方ですか」と聞かれて驚いた。「岡山県No1となり、全国大会出場寸前までいったが、その後のことは知らないし」と、話した。その後の会話では、その後、岡山一になったことはないとのことだから、束の間ながらの黄金時代だったのだろう。それならば少し自慢げに補足したい。併せて席が設けられて無かった「馬術同好会」についても触れておきたい。

 

 

私は、サッカー部の友人達に、脚が速いからと誘われ、1年の2学期から入部した。2年生中心のチームとなってからは県内トップグループとなった。

 

強かった関西に勝った時(アウエー)は、グランドに選手達が正座し竹刀片手の監督の説教を聞く姿を横目に「悪いな」と小声で言い交わしながら自転車で逃げ去ったこともある。操朝戦は、二軍?メンバーで良かったほどだった。今の高校生に比べると月とスッポンの下手糞で乱暴なサッカーだったが、走り負けや当り負けをしないこと、チームワークが良かったことが強さの源だったと思う。岡山のレベルの低さが幸いしたと思う。

 

雨の日でも、皮が水を吸って重いボールを裸足で蹴っていたほど練習熱心さに動かされたのか、顧問の高田正夫先生(広島高師サッカー部OB、全日本クラスの名選手)の指導を受けたことも良かった。歩きのみで行うゲームなど新鮮な教え方は今なお記憶に鮮明である。関学サッカー部に入った先輩が夏休みに指導してくれたことも効果的であった。

 

 

3年生は受験のため夏休み前引退が慣例だが、全日本高校サッカー選手権大会出場を目標に掲げ、全員継続を決めた。順当に県予選を勝ち抜き、東中国予選(朝日高グランド)で島根代表の浜田水産高 と戦ったが延長で敗れた。夢は破れたが、初戦で市立浦和、藤枝枝東などの強豪と当って大負けを免れた上に、受験勉強?に専念できると残念さよりほっとしたものである。

 

この最強時のイレブンは、 FW:打上(副将)、高林、松本・豊田*、納所、陣内*、HB:丸尾(主将)、遠藤、私、FB:坪田、藤定*、GK:延井である。(*=2年)

 

 

 

        ↑卒業アルバムより   原尾島の農家の馬「権兵号」を学校に連れてきて写しました。

入学時には、中学から始めた剣道部(サッカー部入部で退部)と馬に乗ってみたいと馬術同好会に入部した。練習は、岡大馬術部で月2回程度だったが、夏休みに岡大馬術部で合宿の猛特訓を受けた。神戸市内で行われた兵庫県との予選に勝ち、富山国体に出ることになった。その間、シゴキ的練習を受けなんとか乗れる自信を付けた。宿舎は民泊で顧問の白須宏克先生は別の民家だったが、食事は私の宿(金物屋)の2階で、ご主人と3人でとった。夕食では日本酒の晩酌に私も相伴した。小さい時から適度に飲んでいたので、少量では酔わないし顔色も変わらないからであろう。今は昔のおおらかな時代であった。

 

 試合は、高校生貸与馬障害飛越で、抽選で引いた馬に2人が交互に乗る形式のトーナメント戦である。幸い名馬だったから、最初に私が1落下でゴール、後に乗った相手が無過失走行したので負けたのだが、難馬に当れば落馬もあり得るレベルの私には理想的な結果であった。大会で観た名馬・名騎手の華麗な動きに魅了され、本気で乗ってみたいなと思わされた。

 

 

その後サッカーに専念したが、たまに馬に乗ると股が痛くて満足に走れなかった。障害飛越では通常の生活ではまったく使わない股を締める筋肉を使うからである。

 

 

 馬術同好会は、家に馬を飼っていた故小林増雄先輩が創部し、同じく故佐藤 至先輩(いづれも岡大馬術部)、さらに岡犬馬術部の黄金時代(全日本学生3連覇!)の吉原康雄先輩(国体3位)、不詳私(国体5位、全日本学生2位)、青木 謙君(国体高校生2位)を送り出し、岡大馬術部の附属的関係にあった。また、同好会出身ではないが同期の中條 章君は岐阜国体の優勝者であり、長崎県馬術界の重鎮として、今年、日本馬術連盟から表彰された。

 

 

         ↑1962年3月15日 春合宿 
 昭和37年の岡山国体開催に向け高校生を強化していました。後列は、指導役の岡大馬術部の3、4年生、私も1年生として写っております。


           ↓1960年9月2日  国体終了後   岡大馬場での国体予選終了後の記念写真です。

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